売春という言葉、悉く日本人に嫌われる時代となってしまいました。
でも、小さな声でしか言えませんが、売春・・・何が悪いのという感じがしませんでしょうか。
お互いに、同意しあってお金もらって、代わりに身体を差し出すってマネージメントからしても成立しているではありませんか。
そして、実際には日本には、売春が別に問題ない時代もあった訳ですよね。
そこにとてもドラマチックな世界が成立もしていたのではないでしょうか。
今、私達がそういう映画を見て、違和感なく感動しているのは、別にその売春の世界が違和感ない世界だと思っているからだと思いますよ。
とても美しい世界のようにも見える訳です。
まずは売春を汚してしまったのは、GHQの外からのキリスト教的意識でしょう。
GHQのキリスト教の意識は、子孫繁栄という聖域をお金で売り買いすることに許すことが出来なかったのでしょうか。
でも日本の意識からしたら、別に子孫繁栄の聖域を売り買いしている訳ではなくて、快楽という別に提供しても磨り減るものではないものをお金で売り買いするといういたって合理的発想だったのでしょう。
島国の遊びのない世界で、見つけだした娯楽だったのではないでしょうか。
性とは、磨り減るものではない。
だからいくらでも提供出来る。
まさに女性にとって身体とは商売道具なのです。
でも、そうじゃないものもありますよね。
それが処女膜なのです。
この処女膜のことを一番大事にしていた世界はひょっとしたら、この売春可能な時代であったかもしれないですよね。
磨り減るものでない、安易にお金でやりとり出来る世界だからこそ、唯一、消滅してしまうものに対してこの上なく価値を見出してしまった訳です。
現代ってどうでしょうか。
別に処女とかそうでないとか、そんなこと気にしてないのではないでしょうか。
処女奪おうが一切関係ないことだったりしますよね。
しかし、男女共通して言えることなのですが、初めての相手は忘れることの出来ない記憶になることは間違いありませんよ。
きっとこれからのセックスに対して最初の人をモノサシのように扱って行くことでしょう。
そういうものを快感に処女を求めていく人はいるかもしれないですよね。